時はSNSもスマホもなかったレイト・ナインティーズ。
今ほど均一化もされず、日本各地で独自のファッション文化が育っていました。中でも関西エリア、とりわけ大阪の加熱ぶりは控えめに言っても異常なほど。
その影響力はのちに東京にまで及ぶことに…。
大阪で生まれた、姿勢と個性の独自性。
当時、狂乱のアメ村を駆け抜けたふたりが、西の一時代を振り返ります。
今ほど均一化もされず、日本各地で独自のファッション文化が育っていました。中でも関西エリア、とりわけ大阪の加熱ぶりは控えめに言っても異常なほど。
その影響力はのちに東京にまで及ぶことに…。
大阪で生まれた、姿勢と個性の独自性。
当時、狂乱のアメ村を駆け抜けたふたりが、西の一時代を振り返ります。
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高橋正男さん
大阪府堺市出身。カメラマンとして活動を始めた’90年代初頭。
ヘア雑誌でのファッションスナップ撮影をきっかけに、ストリートスナップの草分け的存在となっていく。
『カジカジ』の名物スナップ企画、「街の目」は今も洒落者たちの語り種。 -
TANY(谷篤人)さん
大阪府堺市出身。25歳でビームスに入り、キャラとセンスでアルバイトから名物バイヤーにまでなっている。
その後独立し、地元・大阪でセレクトショップのイマジンをスタートさせた。
ユース時代はスナップの常連で、実はお父さまもカメラマン。
古着の買い付けに、現行品が混ざるようになった。それが’96年から’97年にかけてやったね。
- ―――’90年代の東京のお話はよく聞くんですが、大阪のファッションシーンはどんな状況だったんでしょうか?
- 高橋東京では裏原が盛り上がってましたけど、人気のブランドが、「大阪にお店は出さへん」っていうような感じやったと思います。
- ―――買えない、手に入らないと?
- 高橋うん。それで古着でなんとか面白くできないかな、みたいな。結構みんなそう感じてたんちゃうかな? そんなときにラブバズっていう古着屋さんができたんですけど、そこの影響力はすごかったね。
- 谷懐かしい。すごかったですよね。
- 高橋それまで、どこの古着屋さんもヴィンテージしか置いてないような状況やったけど、ラブバズができて以降はみんなそこに倣ってレギュラー古着を置くようになったからね。その流れで、チャムスもめっちゃ見かけるようになりました。古着の買い付けに、現行品が混ざるようになった。それが’96年から’97年にかけてやったね。
- ―――そのころって、谷さんは何をされてましたか?
- 谷’96年は高校生でした。ただ、日本にはいなかったんです。そのころ、1年ほどカナダに行っていて、帰ってきてからアメ村で遊ぶようになったんです。僕は堺市の出身で、堺の人間はあんまりキタまでは行かず、ミナミで遊ぶことが多くて。僕も緊張しつつアメ村に出かけてました。
- ―――じゃあ、谷さんは高橋さんの言われていたような変化は、リアルタイムでは見られなかったんですね。
- 高橋いや、でも’96年にそういう兆候があって、’97、’98年くらいに爆発的に増えるんで、谷くんもそれは見れてるんちゃうかな? 僕自身はその最初の’96年くらいに、アウトドア専門店でチャムスを買って。ステューシーが好きだったから、それと合わすのにいいな、このペンギン(注:正しくはブービーバード)かわいいな、みたいな(笑)。チャムスが流行ったのは、たぶん色の幅広さがあったんやろうね。
いろんなスタイルを持った人がアメ村に集結してるなって感じたのが’90年代後期だったと思います。
- ―――谷さんはそんな地元・大阪の変化を1年ぶりに見たわけですね。
- 谷僕の場合は中学生のころ、ホンマにド緊張してアメ村に行ってたんですよ。そこにテント村みたいなところがあるんですけど、そこで自分が欲しいわけでもないものを無理やり買わされるくらいのカルチャーで(笑)。
- ―――「お前はこれな」みたいな時代がありましたよね…。
- 谷はい。…まぁ、それは置いといて(笑)。それでも、アメ村に行けば格好いいものがあるっていうくらいのすごい勢いがあったんです。カナダから帰るころには音楽にも興味を持ち始めていて、ちょうど大阪ではクラブカルチャーがすごい盛んになっていたんです。これは東京も同じかもしれないけれど、ジャンルが多岐にわたっていました。ハードコアからヒップホップまで。徐々にいろんなスタイルを持った人がアメ村に集結してるなって感じたのが’90年代後期だったと思います。
- ―――聞いているだけでも、当時のエネルギー量が少し想像できそうな気がしますね。
- 谷もう本当に多国籍というか無国籍というか、そんな状態でした。だから例えばチャムスひとつ取ってもそのスタイリングは無限大で。ジャンルが多すぎるから、正解っていうのがないんです。言ってみたら、表現の自由みたいな。みんな「自分を出そうぜ!」って感じで。
- 高橋特に古着屋がそこにすごい影響を与えてたよね。
- 谷その後、東京では裏原の勢力がさらに強くなっていって大阪も徐々に形が形成されていくんですけど、当時の大阪はまだ、東京よりもすべてが1カ月遅れなんですよ。裏原の服が欲しくても、売っている場所も皆無だし、売ってたとしても本物かどうかすら怪しい(笑)。埋められない東京との格差があったんです。そこで、大阪独自の〝ハズしの美学〞みたいなものが育っていったんだと思います。
裏原とか、プロペラみたいなアメカジ系だった人が、大阪みたいな混沌としたスタイルへと変化していったんです。
- ―――東京とのスタイルウォーズに負けないように、独自の進化を遂げたんですね。
- 谷右向け右となりそうなところを、「こっちに行ったほうが目立つよね」とか、「A級のものが流行っていても、B級のものを推したほうが良くない?」とか。そういう価値観を示してくれたのがラブバズで、正男さんはそういう大阪の状況をずっと撮っていた。僕は『カジカジ』で、それを見ながら育っていったところがあります。
- 高橋そのころ、僕は『Boon』の撮影をし始めて。〝スタイルサンプル〞をやる前、〝カッコマン〞とか、ちょっとダサめの企画をやってたころ(笑)。当時編集担当だった前田(陽一郎・編集者)さんが「編集部でだんだん偉くなって、『カジカジ』を見てくれてて、「街の目」に載ってるような人がいないから、東京をこういうふうにしていきたい! って。
- ―――そういう経緯だったんですね?
- 高橋うん。それで、実際のキャッチは3分の1くらいで、あとはショップスタッフに出てもらったりして。そういうのを毎月やっていたら、半年くらいでホンマに大阪みたいな人が増えてきて。ファッションも裏原とか、プロペラみたいなアメカジ系だった人が、大阪みたいな混沌としたスタイルへと変化していったんです。それが半年で成り立ってしまった。
そのころの格好って大事なことが3つあったと思っていて
チャムスは、この3つが揃ってたんやと思う。
チャムスは、この3つが揃ってたんやと思う。
- ―――そのころも高橋さんの拠点は大阪だったんですか?
- 高橋うん。でも、あのころは月の半分くらいは東京に行ってました。その間にも東京のファッションはどんどん大阪化していったと思います。「大阪の古着屋の特集を組んでくれ」とか言われたりね。 そうやって新しいトライブというか、流行が生まれていった気がする。
- 谷そうやったんですね。
- 高橋チャムスが広まったのもそうやけど、そのころの格好って大事なことが3つあったと思っていて。ひとつが頑張ってる感を出さへんこと。もうひとつは色(の展開)の幅が広いこと。あとはハズしに使えること。チャムスは、この3つが揃ってたんやと思う。なかなかそういう服ってなかったよな。谷くんもそういう人やと思うけど、攻めるもんとハズすもんを混ぜていくというか。そういう人がおしゃれ。「そこはハズすんや!?」みたいな。
- 谷当時、正男さんに何度も写真を撮っていただきましたけど、いつも「今回はどうハズしたろかな」と考えてました(笑)。正解はわかっている。けれど、それをどう違うものに組み変えていくかっていう意識があって。大阪では「カッコいい」より、「オモロい」ってワードをみんなよく使っていて、そこの美学をみんな持ってたと思います。「それ、ハズしたほうがオモロいんちゃう?」って。
- 高橋『カジカジ』編集部でも「あいつ、オモロいやん?」みたいな感じやったね。『Boon』も、『メンズノンノ』とかが見た目もデザインもオシャレなのに対して、ごちゃごちゃでワケわからんねんけど、載ってる情報はめっちゃ正しいっていう。めっちゃ味ウマいけどダサい内装の食堂みたいなもんで。それがやっぱり大阪の人やったと思う。
- 谷そうすね、ホンマに。
- 高橋気取ってなくて、表面的には無茶苦茶なのに、妙に本質的で。 やっぱりみんな、大阪のそういう部分を信頼してた気がします。見た目はいいけど何かのパクりとか、そういうのが一番カッコ悪いと思うから。
- 谷パタゴニアのスナップTももちろんいいけど、同じプルオーバーやったら身幅がたっぷりしたチャムスもええな、みたいな。大阪はレイヤード文化でもあったから、あの形が重ねやすくて良かったんですよね。
- 高橋うん。ぶっちゃけ、あのブービーバードも最初はちょっとファニーすぎるんちゃうか、みたいな声もあったんですよ。ちょっとカッコ悪いんちゃうか…?と。でも、「それを着るのがええねん。わかる?」っていう(笑)。「俺はあえてチャムスや」、みたいなやつのほうがええなって。そういう意味でもハリケーントップは、’90年代後半の大阪を象徴するような存在やったのかもしれへんね。
- 谷僕が「街の目」に載せてもらうようになったのはもっと後ですけど、’90年代の大阪は本当に'70年代のヒッピーカルチャーみたいだったなと思います。みんなが手をあげてるような、本当にすごく活発な時代だったよなって。