Interview

vol.1 HIROSHI KUBO × MUTSUKO HIRATA
アメリカで生まれたチャムスが、ここ日本でも広く知られるようになってずいぶん時間が経ちました。
転機が訪れたのは’90年代。
アウトドアの世界だけのものだった「ハリケーントップ」が、洒落者たちの選択肢ににわかに加わったその陰には、ビームスの存在がありました。
ビームスボーイの立ち上げに関わり、当時をよく知るおふたりが振り返る、あのころのこと。
  • 窪 浩志さん

    1962年生まれ。1985年にビームス入社後インターナショナルギャラリーを経てビームスボーイを設立。
    その後もたくさんの要職を歴任している。横浜出身で海が好き。

  • 平田 睦子さん

    ビームス入社は1992年の関西人。1998年、ビームス ボーイのオープニングスタッフとして東京へやって来て、その後はバイヤーを経験。
    今も昔もメンズライクな服が大好物。

当時あつかっていたのはハリケーントップとクルーネックスウェット、あとはハリケーンライダースも。
もちろんリテイナーもありました。
―――’90年代の日本で、チャムスや「ハリケーントップ」がファッションとして広まったきっかけにビームス ボーイがあったんじゃないかと思っていまして。今日は当時のことをお聞きできましたらうれしいです。
窪そうだとしたら、最初はビームス ボーイというよりは、ビームスのメンズカジュアルですね。もう亡くなってしまったビームスの舘野(史典)というバイヤーがOR(アウトドアリテーラー 米国最大級のアウトドア展示会)でチャムスに出会ったと聞いてました。
平田社内のメンズカジュアルに長くいる北川(浩嗣)さんに話を聞いてみたら「確か’93年ぐらいからBセク(ビームスセクション)ではチャムスを取りあつかっていたんじゃないかな」ということでした。
―――なるほど。
平田当時あつかっていたのはハリケーントップとクルーネックスウェット、あとはハリケーンライダースも。もちろんリテイナーもありました。
窪ベレーはそのあとだったよね。
平田そうですね。あとは小物類もあつかっていて。
―――’90年代初頭は、おふたりはどんな立場で働かれていたんですか?
窪僕はメンズカジュアルのバイヤーを担当してました。あとはオリジナルの企画デザインをしたり。
平田私は神戸のビームスで働いていたんです。メンズカジュアルの売り場の担当でした。その店頭に並ぶ商品としてチャムスを知ったのが最初でした。
窪1980年代後半から’90年代初頭にかけてのストリートスタイルに、マウンテニアリングみたいな要素を取り入れていったのはたぶん、ビームスが先駆けだったんじゃないかな。ORに行ってるのも、洋服店だと我々ぐらいしかいなかったし。チャムスにグラミチ、ワイルドシングスとかね。
これってもう、ストリートファッションじゃん!って。
―――今だとアウトドアの要素をファッションに取り入れるのは普通のことだ思いますけれど、当時は新鮮だったんですか?
窪そうですね。街を見渡してもほとんどいなかったと思います。 それで、アウトドアメーカーの展示会に行ってみたらすごくショッキングで。男性クライマーがクライミングパンツの上にラッピングスカートを穿いて、その上にチョークバッグを装着して大きめのTシャツを着て…みたいな。これってもう、ストリートファッションじゃん!って。まさしく僕らが求めたスタイルだな、みたいな気持ちがありました。
平田私はメンズっぽいスタイルが好きだったっていう理由でメンズカジュアルの売り場の担当になったんです。ただ、当時は自分が着たい小さなサイズがなかなか手に入らなかったんです。着たいメンズサイズの服を乾燥機にガンガンかけて縮めれば着れるか…!?とか考えていて。チャムスもそのころから着てました。ハリケーントップはもともと洗いがかかっていたから乾燥機に入れてもたいして縮まなかったな…。
―――(笑)。当時はどんな色を着てたんですか?
平田いろいろ着てましたよ。押さえにベーシックな色も買いつつ、パープルも着ていて。
窪ダスティピンクみたいなのもあったよね。
平田ですね。当時はみんな色違いでいっぱい買ってましたね。
窪気に入ったものはそうなるよね。ただチャムスにはアウトドアの中でも山寄りの会社っていう認識があって。僕自身は海寄りが好みで、横乗りのカルチャーが好きだったから、正直にいえば売れる商材としてあつかっている感覚が強かった。
―――赤裸々ですね(笑)。
窪はい。だけどチャムスのベレーはよく被ってました。というのも、そのころの僕のヘアスタイルは坊主だったんですよ。
平田そうでしたね(笑)。
窪3日に一度、バリカンで刈ってました。ちょっと伸びて、出張とかで刈れてないときはいつもベレー。スウェット生地でベレーをつくるっていう発想がすごいなって。だから僕がチャムスでいちばん気に入ってるアイテムはベレーでした。
ハリケーントップをたたみ直すとずっといい匂いがしていて
―――同じ時代でも、刺さるところはおふたりでまた違ったんですね。
窪あとは平田とも話してたんですけど、当時のチャムスといえば柔軟剤の匂いとつるっとした質感の印象がすごく強くて。
平田本当にその記憶があります。
―――どういうことですか?
窪お店にチャムスの商品が箱詰めされてデリバリーされるじゃないですか?それを開けるといい匂いがするんです。たぶん、ウルトラダウニーだったのかなと思うんですけど、それが衝撃的で。
―――新品で香りがするということですか!?
窪はい。カルチャーショックでした。のちにコストコが日本に進出してきて、家でも海外の柔軟剤を使って洗濯するようになってから、「これチャムスの匂いじゃん」って気づいて。当時、納品されたハリケーントップをたたみ直すとずっといい匂いがしていて、終わると手がちょっとツルツルしてるんです。きっとアタリを出すためにそうやって洗いをかけてたんでしょうね。
平田今思えば、それも独自の味だなって。当時はジャストサイズの服にこだわっていて、太くて短いチャムスの独特のフォルムは難しいなと思っていたけど、それが今見ると、逆に今っぽいですよね。
窪チャムスは相当売ったよね。
平田めちゃくちゃ売りましたね。ここに1999年9月のビームス ボーイの発注書があるんですけど、かなりの数です(笑)。色で発注数に山をつけてるのが面白いですね。たぶん、メンズの実績とかを見て決めてたんじゃないかな? ハリケーントップで一番多くオーダーしてるのは”ピューター”っていう色ですね。次いで、パープルとオートミール。
―――貴重な証言ですね…!
平田’98年の4月にビームスボーイの1号店が渋谷にオープンしているんですけど、私はそのタイミングで東京へ転勤になりました。その後はショップで働きながら商品企画会議に出させてもらったり、展示会に同行させてもらうようになっていて。
窪ビームス ボーイがスタートするとき、平田から「その新しい店で働きたいんです!」っていう熱いレポートをもらったよね。
平田友だちの家でワープロを借りて打ちました(笑)。ほかのビームス ボーイの立ち上げメンバーも、同じような志を持った女の子が多かったです。
窪ビームス ボーイは、ワークウェアやミリタリーウェアの機能的な男性服をつくるテクニックや発想を女性用にアレンジするっていう挑戦で、それを理解して面白がってくれるスタッフを求めてたからね。だから、平田さんが賛同してくれたのはすごくうれしかった。偶然、誕生日も一緒だったしね(笑)。
平田あと、当時のスタッフのひとりも同じ誕生日だったんです。今も年に一度、その3人のLINEがアクティブになります(笑)。
窪お互いに「おめでとう! たまにはランチでも行こう」ってね。昔その3人でサンディエゴに出張に行ったよね。
平田2000年ぐらいですよね。
窪思い出は、平田さんが朝寝坊して、僕はサーフィンしてたこと(笑)。本当にあのころは楽しかった。
―――ちなみに、御三方のお誕生日はいつなんですか?
平田9月18日です。
―――え!〈ハローウェア〉の復刻のローンチが同じ日です…。
窪え! 本当ですか!?
平田すごい偶然ですね…!?
窪チャムスは自分たちの先輩が見つけてきたものだと思ってたけど、僕らがリアルなアメリカを発信できるんだっていう気持ちになれたし、今も当時と同じことをやり続けてるのがすごいよね。
平田はい。オーセンティックで、ほかのどんな服とも似てないですしね。
窪しかしすごいね、当時のことだけでこれだけ話せるのは。お酒飲みたくなってくるよ(笑)。
平田久しぶりにいろいろ思い出しましたね。今年は誕生祝い、やりましょうか(笑)。
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